校長室だより

2021.06.02

校長室だより(6月号)-学校行事-

コロナ禍の中にあって仕方がないことですが、6月に予定されていた体育祭(高校)・運動会(中学)が中止になりました。こうした行事の持つ意味は、中学生・高校生がその時に強く感じる場合もあれば、あとで振り返ったときに、自分にとってはそうだったのか、と感じるものでもあると思います。アインシュタインの言葉に”Education is what remains after one has forgotten everything they learned in school.” 「教育とは学校で学んだことをすべて忘れた後に残るものである」とあります。ここで「忘れた」とは教科の知識と解釈して、次の話に進みたいと思います。

自分の高校時代を振り返っても、なるほど、教室で習った知識の多くを、悲しいほど忘れてしまっています。ところが、体育祭のある場面は不思議と鮮明に記憶に残っています。断片としてですが、確実に身体の一部のように残っています。もちろん後から後から塗り替えられてきたものでしょうが・・。自分にとって重要な経験だったからなのでしょうか?そうであるともいえるし、そうでないような気もします。経験と呼べるものには違いありませんが、簡単に言葉をあてはめてもっともらしい意味づけをすることは困難です。もちろんその必要もないと思います。文学作品の意味を一文で表しても何の意味もないのと似ていると思います。個々の人間が、言葉を通してであれ、身体を通してであれ、ある経験をくぐることでしかその人にとって存在しえないものがあると思います。

では教室で習ったことには意味がないのでしょうか?教室で習ったことの多くは、思考や感情の一部となって、言わば身体化されて残っていると思います。明示知としては再現できなくても、各人にとって固有のものとして確実に残り働いています。そのことに意味づけが必要でしょうか?どんな意味付けなら納得がいくでしょうか?受験に役立つ?仕事に役立つ?人生に役立つ? ・・・

教室においてであれグランドであれ、学校での学びは、我々の存在そのものに深く関わるものとして、深く多様な文脈に開かれていると信じたいものです。

学校行事の大切さを改めて感じています。

*6月2日から通常の時間割に戻りました。

 

 

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